カーリダーサ『シャクンタラー』を読む
カーリダーサと古典サンスクリット演劇
Section titled “カーリダーサと古典サンスクリット演劇”カーリダーサ(Kālidāsa)は、古典サンスクリット文学史上もっとも高く評価される詩人・劇作家であり、その活動時期は諸説あるものの、グプタ朝期(およそ4〜5世紀)と考えられることが多い。代表作である戯曲**『アビジュニャーナ・シャクンタラム』**(Abhijñānaśākuntalam、「(指輪という)認証の徴によるシャクンタラーの物語」)は、『マハーバーラタ』にも語られる王ドゥシュヤンタと隠者の娘シャクンタラーの恋物語を題材とし、7幕からなる。19世紀にヨーロッパ語(まずウィリアム・ジョーンズによる英訳、続いてゲーテによる激賞)に紹介されたことで、西洋における古典インド演劇の代表作として広く知られるようになった。
古典サンスクリット演劇(ナーティヤ)は、聖典的な演劇論書『ナーティヤ・シャーストラ』の規範に従い、台詞の一部を散文で進めつつ、感情の高まる場面ではシュローカなどの韻文詩節を挿入するという構成を取るのが典型である。以下の一節も、王ドゥシュヤンタが庵にいるシャクンタラーの姿を初めて目にし、その美しさに心を奪われる場面で語られる韻文詩節である。
原文(第1幕)
Section titled “原文(第1幕)”अनाघ्रातं पुष्पं किसलयमलूनं कररुहैःअनाविद्धं रत्नं मधु नवमनास्वादितरसम् ।अखण्डं पुण्यानां फलमिव च तद्रूपमनघंन जाने भोक्तारं कमिह समुपस्थास्यति विधिः ॥
anāghrātaṃ puṣpaṃ kisalayam alūnaṃ kararuhaiḥanāviddhaṃ ratnaṃ madhu navam anāsvāditarasam |akhaṇḍaṃ puṇyānāṃ phalam iva ca tadrūpam anaghaṃna jāne bhoktāraṃ kam iha samupasthāsyati vidhiḥ ||逐語グロス
| デーヴァナーガリー | IAST | 形態素分析 | 意味 |
|---|---|---|---|
| अनाघ्रातम् | anāghrātam | an-(否定)+ āghrāta「嗅がれた」、中性・対格・単数 | 匂いを嗅がれていない |
| पुष्पम् | puṣpam | puṣpa「花」の対格・単数 | 花(のような) |
| किसलयम् | kisalayam | kisalaya「若芽・新芽」の対格・単数 | 若芽(のような) |
| अलूनम् | alūnam | a-(否定)+ lūna「摘まれた」、対格・単数 | (爪で)摘み取られていない |
| कररुहैः | kararuhaiḥ | kara「手」+ ruha「生えるもの」=「爪」の複合語、具格・複数 | 爪によって |
| अनाविद्धम् | anāviddham | an-(否定)+ āviddha「穴を開けられた」、中性・対格・単数 | 穴を開けられていない |
| रत्नम् | ratnam | ratna「宝石」の対格・単数 | 宝石(のような) |
| मधु | madhu | madhu「蜜」の対格・単数 | 蜜(のような) |
| नवम् | navam | nava「新しい」、対格・単数 | 新しい |
| अनास्वादितरसम् | anāsvādita-rasam | an-(否定)+ āsvādita「味わわれた」+ rasa「味」の複合語、対格・単数 | まだ味わわれていない |
| अखण्डम् | akhaṇḍam | a-(否定)+ khaṇḍa「欠けた」、中性・対格・単数 | 欠けることのない |
| पुण्यानाम् | puṇyānām | puṇya「功徳」の属格・複数 | もろもろの功徳の |
| फलम् इव | phalam iva | phala「果実」+ iva「〜のように」、対格・単数 | 果実のように |
| तद्रूपम् | tad-rūpam | tad「その」+ rūpa「姿・美」の複合語、中性・対格・単数 | その(彼女の)美しい姿は |
| अनघम् | anagham | a-(否定)+ agha「罪・欠点」、対格・単数 | 汚れのない |
| न जाने | na jāne | na「〜ない」+ √jñā「知る」の一人称単数・現在中動態 | 私は知らない |
| भोक्तारम् | bhoktāram | √bhuj「享受する」の行為者名詞、対格・単数 | 享受者を |
| कम् | kam | 疑問代名詞、対格・単数 | 誰を |
| इह | iha | 副詞 | ここに |
| समुपस्थास्यति | samupasthāsyati | sam-upa-√sthā「現れる・もたらす」の三人称単数・未来 | もたらすであろう |
| विधिः | vidhiḥ | vidhi「運命・摂理」の主格・単数 | 運命(が) |
訳:「嗅がれたことのない花、爪で摘み取られたことのない若芽、穴を開けられたことのない宝石、まだ味わわれたことのない新しい蜜、そして欠けることのないもろもろの功徳の果実のような――その汚れなき美しい姿を、運命はここに誰を享受する者としてもたらすのであろうか、私にはわからない。」
カーヴィヤ様式の特徴
Section titled “カーヴィヤ様式の特徴”この詩節には、古典サンスクリット詩(カーヴィヤ)に典型的ないくつかの技法が凝縮されている。まず、5つの否定接頭辞つき形容詞(anāghrāta「嗅がれていない」、alūna「摘まれていない」、anāviddha「穴を開けられていない」、anāsvādita-rasa「味わわれていない」、akhaṇḍa「欠けていない」)を並べる並列・列挙の技法により、「誰にも触れられていない、汚れなき」というシャクンタラーの純粋さを、直接「美しい」と述べることなく間接的に描き出している。また、花・若芽・宝石・蜜・功徳の果実という五つの直喩(ウパマー)を積み重ねる構成は、カーヴィヤの重要な修辞技法である**アランカーラ(詩的装飾)**の典型例である。さらに全体は「シャールドゥーラヴィクリーディタ」と呼ばれる長大な韻律(1詩行19音節)で書かれており、荘重で緩やかなリズムが、王が見とれる時間の流れをも表現していると評されることがある。
演劇としての『シャクンタラー』の意義
Section titled “演劇としての『シャクンタラー』の意義”『シャクンタラー』は、単なる恋愛劇にとどまらず、記憶と忘却、自然(森の庵)と宮廷という対比的な世界、運命論(この詩節の「ヴィディ」=運命という語もその一端)といった主題を扱う点で高く評価されてきた。物語の後半では、ドゥシュヤンタが呪いによってシャクンタラーとの結婚の記憶を失い、指輪(アビジュニャーナ「認証の徴」)を手がかりに記憶を取り戻すという展開があり、この「認証の徴」こそが表題の由来となっている。
💬 学びのコラム:「美しい」と一度も言わずに美しさを描く
チャンドラ:ターラー、このドゥシュヤンタの詩節、「美しい」っていう言葉を一度も使っていないのに、ものすごく美しさが伝わってくるね。
ターラー:そこがカーリダーサの技巧なのよ。「嗅がれていない花」「摘まれていない若芽」「穴を開けられていない宝石」って、否定形を5つも重ねているでしょう。誰にも触れられていない、汚れのなさを間接的に描いているの。
チャンドラ:花・若芽・宝石・蜜・功徳の果実——五つもたとえを重ねているのも、なんだか贅沢な表現だなあ。
ターラー:アランカーラっていう詩的装飾技法の典型例なの。ヨーロッパでこの劇が翻訳されたとき、ゲーテも絶賛したのよ。直接的な形容詞に頼らずにイメージを積み重ねる、この間接性がカーヴィヤの醍醐味なのね。
理解度チェック
Section titled “理解度チェック”📝 理解度チェック
Q1. 『アビジュニャーナ・シャクンタラム』の作者は誰とされているか。
✅ 正解です!
❌ 不正解です。正解は A「カーリダーサ」。
解説:『アビジュニャーナ・シャクンタラム』はカーリダーサの代表作とされる。
Q2. この詩節でドゥシュヤンタがシャクンタラーの美しさをどのように表現しているか。
✅ 正解です!
❌ 不正解です。正解は A「「美しい」と直接言わず、否定接頭辞つきの表現と複数の直喩を重ねて間接的に描く」。
解説:本文は5つの否定形容詞と5つの直喩を重ねる間接的な描写技法を説明している。
Q3. この詩節で用いられている修辞技法の名称は何か。
✅ 正解です!
❌ 不正解です。正解は A「アランカーラ(詩的装飾)」。
解説:花・若芽・宝石・蜜・果実の直喩を重ねる構成はアランカーラ(詩的装飾)の典型例と説明されている。
Q4. 『シャクンタラー』の表題「アビジュニャーナ」の由来となっている物語上の要素は何か。
✅ 正解です!
❌ 不正解です。正解は A「ドゥシュヤンタが記憶を取り戻す手がかりとなる指輪」。
解説:呪いで記憶を失ったドゥシュヤンタが指輪(アビジュニャーナ「認証の徴」)を手がかりに記憶を取り戻す展開が表題の由来である。
Q5. 古典サンスクリット演劇の典型的な構成として本文が説明しているのはどれか。
✅ 正解です!
❌ 不正解です。正解は A「台詞の一部を散文で進めつつ、感情の高まる場面で韻文詩節を挿入する」。
解説:古典サンスクリット演劇は散文と韻文詩節を組み合わせる構成が典型であると本文は説明している。